気まぐれなあとがき

すべてあなたとわたし宛て

マグカップ

高校時代、わたしは文芸部に所属していた。所属していたという言い方は正確ではなくて、入りたい部活がなかったから同級生と一緒に立ち上げた、と言ったほうが正しい。わたしたちは図書室で黙々とキーボードを叩き、ああでもないこうでもないとぶつぶつ言いながら物語に満たない何かを創っていた。

先日、パソコンの中身を整理していたら、文化祭の部誌用に書いた掌編小説が見つかった。部誌は無料だったせいかかなりの量を捌いたと記憶している。丁寧に感想をくれた先生もいた。わたしはそのときの何とも形容しがたい嬉しさをもう一度味わいたくて、今もこうしてブログを書いている節がある。

時が経って読み返してみると稚拙だなあと思う。けれど、たしかに、あのときでなければ書けなかった物語だとも思う。

アスタリスクから先の掌編小説はほぼ原文のままになっている。
何勝手に公開してるんだ、と当時のわたしは憤るだろうか。それとも、より多くの人に読んでもらえて嬉しい、と頬を赤らめるだろうか。

どちらにしても、今のわたしには知ったこっちゃない。 

 

     *     *     *

 

ココアが好きだった。ほら、何というか、あの感じが好きなんだ。思い出がたくさんつまったマグカップを、僕は見つめていた。

三月は卒業シーズンだ。今までの卒業式後の僕は、何となく暇を持て余していた。というか、何をしたらいいのかよくわからなくて何もできなかった、というほうが正しい。だらだらと怠惰な生活をして、母によく睨まれた。

しかし、今回はわけが違う。東京の大学に進学するため、上京しなければならない。上京というと聞こえがいいが、要は引越しだ。引越し……僕は自然と耳をふさぎたくなった。

僕は荷造りが苦手だ。どうしたって全てのものを入れたくなってしまう。前に引越した時も、今後見向きもしないであろうぬいぐるみを持ってきた。どうやら取捨選択という能力は僕の脳に付属していないらしい。だからといって誰かに助けを求めるほど子どもでもないので、他の人よりも時間をかけてダンボール箱につめていった。

マグカップは、押し入れの中の箱から見つけた。冬物の衣類を探していた途中、その箱の中身が気になって、作業を中断して箱を開けたのだ。細かい気品のある花柄の箱に、全く見覚えがなかったので僕は少しどきどきしながら箱を開けた。

そして、僕は思い出した。このマグカップは、忘れてはいけない宝物だったということに。

 

前に住んでいた街に、小さなカフェがあった。「ツリーハウス」という名前だったが、それは店主の琴子さんがツリーハウスに憧れていたからで、実際には住宅街の端にあった。

「ツリーハウス」は、たしか僕が幼稚園に通っていた頃に開店した店だ。初めて店に来たとき、僕はココアを注文した。はっきりと覚えている。大きなマグカップに甘い生クリームと苦めのココアが入っていて驚いて、その美味しさにまた驚いたのだ。おかわりしたいと泣いてぐずったら、琴子さんは僕に飴玉をくれた。

『小さなお客様には飴玉をさしあげましょう』――というのが琴子さんの常套句だということには、かなり後になって気づいた。

琴子さんは子どもが好きだった。店内には子ども用に絵本が置いてあって、その中には琴子さん自ら制作したものもあった。額縁に飾ってある少女の絵も、琴子さんが描いたらしい。どこか遠くを見つめる白いワンピース姿の少女に、幼い僕も魅了された。

月日が流れ、僕が小学生になり、中学生になっても、ときどき「ツリーハウス」でココアを飲むという習慣は変わらなかった。むしろ、塾に行く途中に「ツリーハウス」があったので、頻度は増えていたかもしれない。

琴子さんは、学校で嫌なことがあった日はすぐに見破って、何かあったでしょう、と声をかけてくれた。僕をカウンター席に招き、話を聞いてくれた。何が解決するわけではなくても、琴子さんに打ち明けるだけで心が軽くなった。魔法使いのような人だと思った。

琴子さんは僕にとってどの友だちよりも信頼できるひとだった。『友だち』なんて言葉で言い表せられないほど、だいすきだった。

そんなある日、父に地方に転勤の話が出た。僕たち一家は当然のように引越しすることになった。

僕は琴子さんに、何も言い出せなかった。言おう言おうと思っているうちに、「ツリーハウス」に行ける最後の日になってしまった。

僕はいつものようにココアを注文し、カウンター席で琴子さんと世間話をした。本当はどこか上の空だったのだけど、悟られないようにした。

いつ言おうと模索しているうちに琴子さんから、プレゼントがあるの、と声をかけられた。ちょっと待っててね、と言い残して、琴子さんは調理場へ行ってしまった。壁掛け時計の秒針が、店内で唯一音を鳴らしていた。

帰ってきたとき、琴子さんが手にしていたものは、マグカップだった。いつもココアをいれてくれたマグカップと同じものだった。

「卒業記念に、どうぞ」

琴子さんは困ったように笑った。

そうか、琴子さんは、すべてわかっていたのだ。わかっていて、何も言わなかったのだ。

いつの間にか、僕は泣いていた。「またいつかいらっしゃい」と琴子さんはやさしく言った。

 

ココアが好きだった。ほら、何というか、あの感じが好きなんだ。思い出がたくさんつまったマグカップを見つめて、僕は上京する前に琴子さんに会いにいくことを決めた。