人生において忘れられない人が何人かいる。多くは心の底から尊敬している人たちで、良いエピソードばかり印象に残っている。
しかし、今日ここに書きたいのは、そういう人たちとはちょっと違う、高校時代の先輩の話だ。
わたしと彼は顔を合わせれば罵倒しあうという変な関係だった。だから仲が良かったのかと問われると素直に頷くことができない。けれど、先輩は確かに忘れられない人で、おそらくこれから先何度も思い出すことになるだろう。
気づけばあれから5年が経った。
実在の人物を題材として記事を書くのは少しためらったけれど、その辺はもう時効ということで。
* * *
先輩と出会ったのは、高校に入学して間もない頃だった。
そのときわたしのクラスは2時間続きの書道の間の休み時間だった。教室のあちこちから墨汁の匂いがする中で、わたしは後ろの席の女子と話していた。まだそんなにお互いのことを知らなかったので、どこか探り合うような雰囲気があった。
何となくこの子とは話が合わないかもしれないと感じ始めた頃、教室の後ろの方で大きな音がした。男子がいきなり取っ組み合いを始めたのである。
わたしは唖然とした。ここ、高校じゃなかったっけ。高校生でも教室の後ろで暴れるのか。空気中の墨汁の匂いがかき混ぜられていくのを感じた。
最初は馬鹿だなあと呆れていたが、その瞬間ふと、墨汁が床にこぼれたら後始末が大変だと思った。男子の動きが止まる気配はなかった。
これ、止めるべきじゃない?
頭の中で考えるとほぼ同時にわたしは怒鳴っていた。
「お前らうるせえ!出て行け!」
今度は男子が唖然とする番だった。教室中がしんと静まり返り、視線はわたしに集まった。
それだけでも十分効果はあったはずだが、わたしの怒りは収まりきらなかった。気づけばわたしは掃除用具が入ったロッカーからホウキを取り出して男子に接近し、槍で獣を退治するかのごとくつついていた。
男子は「ごめん、ごめんってば!」と言いながら一目散に逃げていった。簡単に逃げるなら最初から暴れないでほしい。満足したわたしはホウキをきちんと片づけて席に戻った。さっきまで話していた女子は「時田さんすごいねえ」と半分引きつった顔で言った。
授業を終えてホームルームの時間になると、担任がニヤニヤ笑いながら教室に入ってきた。何がそんなにおかしいんだろうと思っていたら、「時田は放課後職員室に来なさい」と言われた。教室は変な空気に包まれ、わたしは下を向いた。心当たりはもちろんあった。
確かに暴れていた男子をホウキでつついたのはちょっとやりすぎだったかもしれない。怒られるんだろうな、嫌だなと思いながら職員室に行くと、開口一番こう言われた。
「時田、お前よくやったな! グッジョブ!」
……ん?
怒られる気でいたわたしは怪訝な顔をした。今、グッジョブって言われた?
「いやあ、あのとき廊下から見てたんだけど、ヒグマを怒鳴りつけたやつ初めて見たよ。あいつ後輩に怒られると思ってなかったんだろうな、完璧にひるんでて俺も笑っちまった」
担任はわたしの反応などお構いなしに喋り続ける。少し上機嫌なようにも見えた。
担任が言うには、教室の後方で取っ組み合いをしていたうちのひとりがヒグマという3年生らしい。彼はいわゆるヤンキーで、事あるごとにトラブルを起こし、先生たちから目を付けられているらしい。担任が呼び出したのは「今後ヒグマに嫌がらせをされるかもしれないから何かあったら相談してね」ということのようだった。
……嫌がらせをされるかもしれないから何かあったら相談してね?
ここに来てわたしはやっと事の重大さに気づいた。意図せずとんでもない先輩に絡んでしまったのだ。全身から血の気が引いていく。その一方で、なぜか『坊っちゃん』のあの有名な書き出しを思い出した。うちの親は無鉄砲ではないが、わたしは完全に無鉄砲だった。
翌日、わたしはいつも通り学校に登校した。先輩に目を付けられたかもしれないとはいえ、学年も違うし、接点はほとんどないはずである。わたしは油断していた。
上履きに履き替え、階段を上り、教室を目指して廊下を歩く。その時点で変わったことは特になかった、と今でも思う。
突然、廊下にいた同級生たちが何かを避けるように左右に割れていった。学園ドラマでよく見るあの状態である。わたしは何だろうと訝りつつもそのまま歩き続けた。
廊下の向こう側から、制服を着崩した男がこちらに向かって歩いているのが見えた。オーラが違うというか、明らかに威圧感のある歩き方で、廊下はあっという間にただならぬ空気に満ちた。
よく見るとその男はヒグマ先輩だった。
先輩はわたしの姿が視界に入った途端、背筋をビシッと正した。そして廊下中に響き渡る声で、
「時田さん、おはようございます!」
と叫んだ。
わたしは何が起きたのか全く理解できなかった。
まず、先輩はなぜわたしの名前を知っているんだろう、とぼんやり考えてから、もしかして担任が言っていたのはこのことだろうか、と気づいた。でも、大声で挨拶をされるのを嫌がらせと解釈するのはいくらなんでも無理がある気がした。
混乱したわたしは、とりあえずにっこりと笑いながら、「おはようございます」と返した。先輩は一瞬面食らったような表情をしてから、またしても大きな声で「失礼します!」と言ってすれ違った。
その後、一部始終を聞いていた同じクラスの男子が
「姐さんマジパネエっす」
と笑いながら近寄ってきたことによって、わたしはようやく事の重大さを知ったのである。
* * *
複数のエピソードを詰め込むつもりが、出会いの話だけでこれだけの量になってしまった。今日はここで一旦締めるとしよう。
先輩とのくだらない思い出話はまだまだある。また気が向いたらつづく、かもしれない。