気まぐれなあとがき

すべてあなたとわたし宛て

美容院

美容院に対して苦手意識がある。

理由はよくわからないけれど昔から苦手だった。鏡に映っている自分を見続けるのも、美容師さんに話しかけられるのも、目の前に置かれたファッション誌を興味ありげに読むのも、何となく慣れない上にどこか居心地の悪さを感じる。こんなことを感じるのはわたしがおしゃれではないからだろうか。

特に苦手なのはシャンプーである。

鏡の前から解放されるのはいいが、今度は謎の布によって視界が遮られる。美容師さんはガシガシと髪を洗ってくれる。まるで長年洗われていなかった犬とトリマーの関係のようだと思い、口角が2ミリぐらい上がる。布で隠されているとはいえニヤニヤしていたらすぐにバレるだろうから、わたしは一瞬で真顔に戻る。

そうこうしているうちにこの世で最も難しい質問を投げかけられるのだ。

「どこか洗い足りない場所はございませんか」

この質問は毎回必ず聞かれるが、何と答えればいいのか未だにわからない。洗い足りているのかなんて自分でもわからないし、もしもここを洗ってほしいと思ったとして、どうやってそのことを伝えればいいのかわからない。わからないことだらけで困る。「右側側頭葉の辺りをお願いします」なんて言ってもドン引きされるだろう。

そんなわけでわたしはいつも間抜けな声で「大丈夫でーす」と言うが、一度でいいから「どこどこをもうちょっと洗ってください」と言ってみたいと思っていた。

 

     *     *     *

 

先日、3ヶ月ぶりに美容院に行った。

わたしはロングヘアで、髪を染めておらず、これからさらに伸ばすつもりでいるから、3、4ヶ月に一度に行くだけで済む。

美容師さんの助言にちゃんと従っていたつもりだったけれど、わたしの手入れが悪いのか、髪は3ヶ月でボサボサのバサバサになってしまった。しかも美容院に行く2日前に写真撮影の予定が入り、応急処置で自分で前髪を切るという謎の行動をした。怒られはしないだろうが呆れられることは間違いない。

わたしはあれこれ勝手に妄想してため息をついた。そしてその息を即座に吸い込んだ。小学生の頃、担任に「時田さん、ため息をついたらすぐに吸いなさい。幸せが逃げるわよ」と叩き込まれたせいである。ばかばかしいことこの上ないが長年の習慣なので変えられない。何の話だ。

……閑話休題

とにかく憂鬱な気分で美容院の扉を開けた。ニコニコした美容師さんに迎えられ、特に何も入っていない荷物を預ける。自意識過剰なわたしはカバンを渡したときに「いや軽っ!」と思われていないかヒヤヒヤした。言うまでもないがカバンが軽くても何も問題はない。

そんなわたしの気持ちなどどうでもいい。わたしは席に案内され、どんな髪型にしてほしいか美容師さんに気持ちを伝えた。

「これからも伸ばしたいので長さは変えずに見た目を整えるくらいにしてください。前髪は眉毛の下になるように切ってください」

ここ数年ずっとこの台詞しか言っていない。もう暗記してしまったので口からすらすらと出てくる。おそらく美容師さんにはまだ伸ばすんかい!と思われているが、残念ながらわたしの目標に全然達していないので、あと2年は同じ台詞を唱えることになるだろう。ここまで来ると一種の早口言葉のようだ。

長さを変えないのでカットはすぐに終わった。
シャンプー台に移動した後、膝掛けを渡され、顔に謎の布を乗せられた。水からお湯に変わっていく音を聞きながら、わたしは今日こそ「どこどこを洗ってください」と言おうと決心した。特にどこもかゆくなくても、である。美容師さんを実験台にするようでいささか申し訳ないが、わたしは美容師さんの反応を見てみたかった。興味本位というやつだ。

「お湯が熱かったら教えてくださいね」と言われ、洗髪が始まった。わたしは髪の量が多いのでガシガシとかなり大胆に洗われる。これで「洗い足りない場所、あります!」などと宣言しようものなら美容師さんもびっくりするだろう。しかし、今日のわたしはすでに洗い足りない場所を“設定”してある。ここで引き返すわけにはいかない。そんなことを考えていたら口角が2ミリくらい上がっていたので瞬時に真顔に戻した。

何だか今日の美容院は楽しい。普段からこういうことを考えながら髪を切ってもらえば、苦手意識はなくなるかもしれない。解決策を思いついたわたしは、意外と簡単なことだったな、と思った。

しばらくして再びお湯の音が聞こえた。美容院のシャワーの音はいつ聞いても心地よくて、わたしは目を閉じてうっとりした。

……ん?

例の質問は? なし?

うっすらと目を開けると、美容師さんは何食わぬ顔で泡を流していた。

洗い足りない場所、全然聞かれなかった!!!!

わたしはひそかに衝撃を受けた。
そりゃあ、たしかにあの質問には毎回困っていたけど、聞かれなかったら聞かれなかったで寂しいではないか。ここまできたら常套句みたいなものでしょう? どうして聞いてくれないの? せっかく楽しみにしてたのに!

混乱しているわたしのことなどつゆ知らず、美容師さんはいつの間にかトリートメントも終えてタオルで髪を拭いていた。

例の質問をされなかっただけで一気にテンションが下がったわたしは、その後の記憶がすっぽりと抜け落ちている。気がついたときには美容院を出て、表の通りをトボトボ歩いていた。夕方の風は冷たく、吐く息は白かった。

ちょっとした計画が失敗してこの落ち込みようである。帰宅したわたしは速攻で冷凍庫を開け、お気に入りのチョコレートアイスを貪るように食べた。こうなったら美味しいもので自分の機嫌を取るしかない。わたしの長所は立ち直りが異様に早いことであり、最後の一口を飲み込んだときには元気を取り戻した。

よく考えたら、今日を最後に永遠に美容院に行かないわけではない。次に美容院に行ったとき、また例の質問をされるかもしれない。今後いくらでもチャンスはあるのだ。わたしはわたしを励ました。

……でも、やっぱり恥ずかしいから、もういいかな。