気まぐれなあとがき

すべてあなたとわたし宛て

本当

最近考えていることのひとつに、「本当って、なんだろう?」という問いがある。

わたしは子どもの頃からしょうもない嘘をついては自己嫌悪に陥ることが多かった。例えば「今日の朝ごはん何食べた?」と聞かれたとして、本当は朝から冷凍ピザを食べたのに、「ご飯と焼き魚と味噌汁」とか「トーストとスクランブルエッグとサラダ」とか、朝ごはんとしてふさわしそうな食事を答えてしまう。なぜそんなしょうもない嘘をつくのか、自分でもよくわからない。嘘をつく理由には「かまってほしい」「他人に注目されたい」などがあるらしいが、朝食の内容で注目されることはまずないだろう。

こういう体質(?)のせいで、苦手なものがある。一対一の面談形式の会話だ。「今困っていることはありますか?」という問いかけには素直に答えられるものの、そこから具体的な話題になると、自分の考えとは少しずつズレた答えを言ってしまうことがある。本当のことが言えない。「あ、今ちょっと違うこと言ったかも……」と感じても、いつの間にか話が進んでいて訂正できない。話し相手とふたりで積むつみきが、わたしが小さな嘘をつくせいでつみきがどんどん歪な形になっていき、最終的に相手とわたしとでは完成形がまったく違うことになってしまうのだ。

本当って、なんだろう?

小学生のときに読んだ本の中に「嘘つきは漫画家の始まり」と書いてあって、絵が描けないから代わりに小説を書き始めた。小説はすべて虚構の話だから、嘘つきが役に立つかもしれないと思った。

けれど実際に書いてみると、小説はフィクションでありながらも、本当のことしか書けないようにできていることに気づいてしまった。「見せかけ」を書いても、読者にはすぐにわかってしまう。わたしが書こうとしている純文学は特にそういう傾向が強く、この話題については、小説家の村田沙耶香さんの言葉が印象に残っている。(インタビュー動画を文字起こししたので、文の区切りなど間違っているかもしれません)

「本当の本当」という言葉を、私は小説を書く時よく使っていました。みんなが本当と呼んでいることの、さらに奥底にある、みんなが絶対に蓋を開けない、まだ言葉になっていない本当のこと、そこを子どもの頃から見たかった。
小説を書く時、私は小説に引きずり回されて、その小説がどこにドライブしていくかまったくわからない。だから私は小説を書いていた時、とても怖いところに連れて行かれたり、とても怖い箱を開けなければいけなかったりするときがあります。でも、そこに何が眠っているのか、人間という生き物、自分という生き物の本当の深層心理の恐ろしい場所を見たいし、それを言葉にしたいといつも思っています。それはとても怖いけれど強い願いです。

本当って、なんだろう?

この問いに答えを出すのはものすごく難しいけれど、これから何年かけてでも自分の答えを出したいと思う。