気まぐれなあとがき

すべてあなたとわたし宛て

物語未満

わたしの人生は誰にも消費させないと決めている。絶対。誰にも。
ただ、聞いてほしい話は山ほどある。たとえば、こんな話。

       * * *

電車から降りるときにすれ違った男がPASMOを落とした。駅のホームに裸のままそこにあるPASMOがなんだか不憫に思えて、わたしは反射的にそれを拾い、電車に戻って、男に渡した。男は礼も言わずに受け取った。電車の扉はぷしゅうと音を立てて閉まり、わたしは結局1駅分余計に運賃を支払う羽目になった。

進学のために上京してきてもうすぐ2年が経つ。
都会が楽しいと思えたのは最初の1週間くらいだった。まぶしいだけのネオン街にはすぐに飽きたし、話題のスポットに足を運んでも「混んでるなあ」くらいの感想しか得られなかった。じゃあ地元に戻りたいかと問われれば話は別で、そういうことを考えるとき、自分の都合の良さに辟易してしまう。わたしはどこにもいたくない。

わたしはドアの近くに立ったまま外の景色を眺めた。西日が車内に容赦なく降り注ぐ。乗客のひとりが窓のカーテンを下ろした。わたしは目を細めてでも外を見つめる。つい5分前の出来事について考えながら、ため息にもならない微かな息を吐いた。

 

遠距離恋愛はむずかしいとよく言われるけれど、わたしたちはこれでも上手くやっていた方だと思う。だから、別れのときを迎えた今、もっと何か別のしあわせな道があったんじゃないか、みたいな、そういうことは思いつかなかった。思いつけるはずもなかった。

何度も何度も話し合った。夜通し電話したこともあった。けれど、いちどすれ違ってしまった心は、そう簡単に軌道修正できるわけではない。頭ではわかっているはずなのに納得できなかった。

最後に会おうという話になったとき、てっきりわたしは恋人がいる地元へ帰らなければならないのだと思っていた。だから、恋人がわたしの住む東京の、ごく限られた人しか知らないようなレトロなカフェを指定してきたのには驚いた。そこはネットで話題になるような場所ではない、ただただ古いだけのカフェなのだ。わたしの知らない恋人がいるのだという当たり前の事実に、鳥肌が立った。

直接会うのは半年ぶりだった。わたしは約束の1時間前にカフェの最寄り駅に着いた。駅の近くのデパートを暇つぶしにぶらぶらと歩き回っていると、黒いワンピースが目に入った。飾りのまったくついていない、シンプルなワンピースで、よほどの美人でないと着こなすことはできなさそうだった。わたしはそのワンピースの前に立ち止まり、見とれた。

「そちらのワンピースはたいへん人気の商品でございまして、先ほども1着売れたんですよ」

いつの間にか隣に口角を上げた店員が立っていた。わたしはその場を半ば逃げるように去った。店員には申し訳ないことをしたが、わたしにそのワンピースは似合うはずもなかった。

約束の時間を少し過ぎて改札の前に戻っても、恋人の姿は見当たらなかった。5分、10分、15分待っても来なかった。
ちらちらとこちらを窺う人の気配には気づいていた。気づいてはいたけれど、恋人の特徴とはかけ離れていたから、無視していた。

待ち合わせ場所に戻ってから30分が経過しようとした頃、後ろから名前を呼ばれた。

振り返ったわたしはことばを失った。
恋人は、彼は、さっきまでわたしが眺めていたワンピースを着ていた。

恋人はぽつりぽつりとことばをこぼす。
物心ついたときから、女の子になりたかったこと。昔から姉の洋服をこっそり借りて着ていたこと。半年前、その事実がついに家族にばれたこと。両親に勘当されて東京に出てきていたこと。こっちでは女の子として生活していること。

わたしに、何と説明するか、ずっと悩んでいたこと。

泥水みたいなコーヒーを飲みながら、わたしは恋人の話を黙って聞いていた。恋人にかけることばが見つからなかった。

そこに座っているのはわたしの知らない恋人だった。

改めて恋人の容姿を眺めてみると、恋人は完全に女の子に見えた。元々中性的な顔立ちをしていたけれど、整えられた前髪や肌や爪やまつげは、女の子にしか見えなかった。その上、身につけているワンピースがよく似合っていた。わたしが諦めた、黒いシンプルなワンピース。

「……口紅」わたしはひと言、呟いた。
「え?」
「その口紅、ワンピースに全然似合ってない」
恋人が困ったように笑ったのは、顔を上げなくてもわかった。

「買いに行こう。今から」

続いて出てきたことばには、わたしも恋人も驚いた。

そのときに気づいたことがある。
わたしは、この瞬間が来ることをずっと前から予感していたのかもしれない。

わたしたちは駅前まで戻ってデパートのコスメカウンターに向かった。口角をしっかり上げたビューティーアドバイザーが恋人に合いそうな口紅を片っ端から持ってくる。最初は緊張していた恋人は次第に表情が明るくなっていった。わたしはずっと下を向いていた。恋人は紫の口紅を選んだ。

「すみれ」恋人はわたしの名前を呼ぶ。
「口紅ってどうやってつけるの」
不安そうな顔をした恋人は、わたしの目を捉えて離してくれなかった。
「教えて、すみれ」
今思えば、恋人はわたしにチャンスを与えたのだ。この現実を受け入れるチャンスを。
わたしは恋人の顎にそっと手を添え、買ったばかりの紫の口紅を引いた。手が震えてうまくつけてあげられなかったのに、恋人はニッと笑って「ありがとう」と言った。

「すみれ、ずっとすきだった」
「うん」
「これは悪い夢だから、さっさと忘れた方がいい」
「うん」
「じゃあ、もう行くね。今までありがとう。どうかしあわせになって」

恋人は、彼は、いや彼女は、手を振りながら改札の喧騒の中へと消えた。

わたしは彼女を見送った後、踵を返してデパートに戻り、彼女を担当したビューティーアドバイザーを探した。
「さっきの、彼女と、同じ口紅が欲しいんですけど」とお願いする声は少しだけ震えてしまった。ビューティーアドバイザーは何も言わずにカウンターから口紅を出した。口角は上がったまま、眉だけがほんの少し下がっていた。

      * * *

あのときの恋人は今、わたしと同じ名前を、時田すみれを名乗って、この世界のどこかで生きている。