気まぐれなあとがき

すべてあなたとわたし宛て

馬鹿と常識

「馬鹿は風邪をひかないって言うけどさ、馬鹿は自分が風邪をひいてるって気づけないだけだと思う、なんたって馬鹿だから」

中学のクラスメイトのまどかちゃんがこう言ったとき、世界がぐるんと反転して見えた。真偽はともかく、その衝撃たるやすさまじかった。そうか、馬鹿でも風邪はひくのか。ただ気づいてないだけなのか。そして、それはわたしも当てはまってないか?

わたしは勉強ができない系の馬鹿ではない(と自負している)が、生活ができない系の馬鹿だと思う。

この事実はなんとなく自覚していたけれど、この前「生ハムを食パンと一緒に焼いたら美味しいかもしれない」と言ってトースターで焼き、最終的にただのハムを生み出したときに、ああわたしは馬鹿なんだと痛感した。誰にも見られなかったものの、地味に恥ずかしかった。穴があったら入りたいとはこういうことだろう。

わたしだって真っ当に生きたいという気持ちはある。ただ、その気持ちで上手くいったためしがない。

みんなはどこで常識を身につけたのだろうか。常識を教えてくれる学校でもあるのだろうか。「生ハムを焼いたらただのハムになりますよ」などと手取り足取り教えられたのだろうか。

疑問はどんどん膨らんでいく。先日再契約したスマホで「常識 教える 学校」と検索してみた。自分でも意味不明なことを調べているとはうすうす感じていたが、インターネットには何かしらの情報があると思った。

予感は的中した。「世間知らずなあなたに常識教えます!」と真っ赤な文字で書かれたカルチャースクールのサイトを見つけ出したのだ。
宣伝文句によれば「常識が面白いほど身につく」らしい。怪しい匂いしかしないが、わたしが求めていたのはこれだった。わたしはすぐさま見学予約をし、隣町にある「コモン・ノウレッジ・カルチャースクール」を訪ねることになった。

コモン・ノウレッジ・カルチャースクールは、古びたアパートの1室にあった。なんだか今にも倒壊しそうな建物で、この時点でわたしは一抹の不安を感じた。しかし、ここまで来たら行くしかない、という謎の見栄もあり、わたしは部屋の扉をノックした。

中から出てきたのは、アパートに似つかわしくない、品の良いマダムだった。長い白髪を結い上げた三つ編みと、ラベンダー色のニットがとても上品だった。なぜこんなところにいるんだろう、ていうかこの人が先生なんだろうか、などの疑問は口に出さず、とりあえず挨拶を交わして部屋に入った。

部屋の中は整理整頓されていたので古いわりにきれいだった。部屋の中央に丸いテーブルとイス2つがドカっと置いてあり、どうやらそこで指導を受けるようだった。

え、マンツーマンでやるの?

勝手に学校の教室みたいな環境を思い描いていたわたしは身動きが取れなくなった。心の準備が全くできていない。そんなわたしを知ってか知らずか、マダムはにこにこしながらイスに座るように促してくる。いつまでも突っ立っているわけにもいかず、わたしは腰を下ろした。相変わらず頭の中は真っ白のままだった。

「初めに、時田さんの現在の状況を伺いますね。今どんなことに困ってらっしゃるんですか?」

マダムは穏やかに尋ねてきた。わたしは生ハム事件を説明し、常識を身につけたいという話をした。笑われるかもしれないと内心ビクビクしていたけれど、マダムは特に反応を見せなかった。さすがプロ。こんなエピソードくらいじゃ動じないようだ。

「そうですか、常識を身につけたいというよりドジを治したいように聞こえますが、ご自身ではどう思われますか?」

「そう……かもしれないです。とにかく二度と生ハムを焼いたりしないようになりたいです」

いつの間にか話が常識から生ハムに移行しているが、このときのわたしはつじつまが合わないことに全く気づいていない。

マダムはわかりました、と言いながら電卓を取り出した。代わり映えのしない、事務用の電卓だった。
わたしの脳内は一瞬にして?で満たされた。マダムはにこやかに説明を始めた。

「今からあなたが次にやらかすドジを予言します。あなたはお金の計算を間違えてスーパーの会計でお金が足りなくなります。その危機を回避するために、一緒に電卓での計算の仕方を学びましょう」

予言もするんだこの人、とわたしは驚愕した。しかもいかにもわたしがやりそうなことをピンポイントで予言してくるではないか。なんとなくここは素直に従ったほうが良いような気がしてきた。今までの不信感を捨てて、わたしは言われたとおり黙々と電卓を叩くことにした。

しかし、いくら電卓で計算しても、一向に計算間違いをしなかった。

またしても不信感が募ってきたわたしに、マダムは衝撃の一言を放った。

「あら、全然間違えないわね。おかしいな」

おかしいな、ってどういうことだよ。

やはりサイトを閲覧した時点で怪しいと思うべきだったのだろうか。
部屋に流れる沈黙に耐えきれず、わたしは「この後予定があるからこの辺で失礼します」と言って逃げた。もちろんそんな予定はない。マダムは何も言わなかった。

アパートを後にしたわたしは、この数時間は何だったんだろうとむなしくなりながら夕暮れの道を歩いた。家々の影がやけに大きくて不気味だった。

住宅街の角を曲がる瞬間、すさまじい轟音が辺りを包み込んだ。驚いて後ろを振り返ると、さっきまであったはずのあのアパートが跡形もなく消えていた。とんでもない音だったのに誰も家の外に出てこない。わたしは、これは悪夢だったんだと気づいて、少しだけホッとした。

それにしても、冬の夕方は寒い。この道を歩いている途中だけでくしゃみを三連発したし、風邪をひいたかもしれない。今夜は鍋にしようかな、と思い立ったわたしは生姜とネギを買いにスーパーに寄った。

その後のことは、まあ何というか、ご想像の通りである。