愛人が風邪をひいた。
ばかだから風邪ひかないんだよね、なんてのたまっていたのはずいぶん前のことだ。ばかでも風邪はひくよ、とその場でいちおう言い返したけれど、あたしだって笑ったときに刻まれる目尻の皺にだまされていた。愛人だけでなくあたしもばかだった。
ほんとうなら今日会う予定だった。直前になって愛人から「なんか調子悪いかも」とLINEが来た。そのときあたしは3色目のアイシャドウを塗っている途中だった。きれいなグラデーションにならなくていらいらして、LINEの通知音にさらにいらいらした。もっと早く言えよ、って悪態をつきながら「大丈夫?」とフリック入力した。
「なんか寒気がする」
「熱は?」
「38℃ちょい」
じゃあ今日会えないじゃん、と思った。実際に口にもしたかもしれない。
「安静にしなさい」と送って、スマホをベッドに放り投げた。ついでにあたしもベッドに飛び乗って枕に顔を埋めた。一瞬しまったと思ったけれど、すぐに打ち消した。化粧なんて知らない。あとでカバーを取り換えればいいだけ、と、自分に言い聞かせる。
電話がかかってきたのはその1時間後だった。
画面を見なくても、愛人だとわかった。出なきゃと思うのに5コールくらい動けなかった。
今、この電話を無視したら、どうなるんだろうか。
そういうことを考えている自分にぞっとする。悪魔みたいだと思った。悪魔みたいな自分をゆるせなくて、左手で頬をぴしゃりと叩いたあと右手でスマホを取った。
「もしもし?」
「ごめん、なんか食いもん買ってうち来て」
愛人はそれだけ言って電話を切ってしまった。息づかいからして相当まいっているみたいだった。あたしは家に常備しているポカリスエットと、昨夜作ったラタトゥイユのタッパーを鞄に入れて、玄関を出た。
愛人と初めて会ったときのことを、あたしはまったく覚えていない。大学のクラスがたまたま同じだっただけで、立派な第一印象なんてものはなかった。
最初はちゃんと友だちだった。時間が合えば一緒に学食へ行く程度の関係だった。それがだんだん距離が近くなっていった。性格が似ているわけではないし、なにか共通の話題があるわけでもなかった。ほかに仲のいい人がいないわけでもなかった。周りの人はあたしたちの仲のよさに引いていたけれど、正直に言ってしまえば、あたしたちだって困惑していた。
ある日、クラスの女の子から、ふたりはつきあっているのか、と聞かれた。
あたしはいちおう驚いたふりをした。そうでもしなければゆるされない気がした。つきあってないよ、と即座に否定しても、うたがわれると思った。
「実はおれたち愛人なんだ」という声がした。
あたしは背後に愛人がいることに気づいていなかった。たったひとことでその場の空気が死んだように静かになった。あたしも、女の子も、愛人さえもなにも言わない。愛人の顔はあたしからは見えなかった。見えなくてよかった。どんな表情をしていても正解とはいえなかっただろうから。
あとから聞いたら「だって、ああでも言っておかないとしつこく聞かれ続けるじゃん」と愛人は答えた。悪びれるそぶりもなく、飄々としていて、あたしは苦笑した。普通は怒り出すものなんだろうけど、あたしにはできない。愛人はきっとあたしのそういう弱さを見抜いている。
友だちというには近づきすぎた。けれど、距離を取ろうと決心しても、なにを今さら、と思ってしまうのも事実なのだ。
玄関の鍵はかかっていなかった。愛人はいつもそうだ。ドアノブをまわしたときのあの違和感にはいつまでたっても慣れない。
人の気配を感じたらしい愛人があたしの名前を呼んだ。弱々しい声だったけれど、多少の演技が入っていることはあたしにもわかった。短い廊下をすすむと、愛人が布団で寝ている姿が目に入った。あたしはとりあえずポカリスエットを渡して、電子レンジをさがす。
「呼び出してごめん」と愛人はか細い声で言った。ポカリスエットの蓋をうまく開けられなかったらしい、布団に小さなしみができていた。
「ラタトゥイユ持ってきた。レンジどこ?」
「冷蔵庫の上。てか、病人にラタトゥイユってセンスおもしろすぎる」
「文句あるならあげないけど」
「ないです。ラタトゥイユください」
あたしはケラケラ笑いながらラタトゥイユを皿に取り出して電子レンジであたためた。少なめに盛り付けてもあと2食ぶんはあったから、残りを冷蔵庫に入れた。ひとり暮らし用の小さな冷蔵庫には白味噌しか入っていなかった。
「ねえ、なんで白味噌なの」
「味噌キュウリを白味噌でやったら美味いんかなって思って昔買ってきた」
「……それどうだった?」
「想像にまかせる」
愛人はあたためすぎたラタトゥイユを無言でたいらげたあと、風邪薬を飲んでさっさと寝てしまった。あたしは皿を洗って適当な場所に片づけた。
皿を泡でつつみこみながら、あたしは想像した。
愛人がもういちど風邪をひいたとして、あたし以外の人間が見舞いにやってくる。おそらくその人はあたしよりもマシな看病をするだろう。昨夜作ったラタトゥイユじゃなくて、おかゆとかたまごうどんとかすりつぶしたりんごとかを愛人に与えるだろう。気を利かせて冷えピタを買ってくるかもしれない。無残な姿の冷蔵庫を見て、なにか食べられそうなものを見繕ってくるかもしれない。
いやだな、と思った。
あたし以外の人間が彼の看病をするのは、いやだな、と、思った。
ほんとうはずっと前から気づいていたのだ。あたしたちは関係性に名前をつけないことによって現実から逃れようとしている。友だち以上恋人未満の都合のいい異性として、お互いに利用している。都合が悪くなればいつでも切り捨てられる、そのくらいがちょうどいいのだと、思いこもうとしている。
あたしは冷えた手で彼の頬に触れた。彼は目を閉じたまますうすうと呼吸をしている。気持ちがよさそうに、口角を2ミリくらい上げて、眠っている。
あたしは、彼が起きたら、自分の思いすべてをぶちまけようと決めた。ずっとすきだったんだけど、もう愛人はいやなんだけど、恋人としてつきあいたいんだけど、あなたはどう思います?って、聞いてみようと決めた。
冷蔵庫からモーター音がする。白味噌とラタトゥイユしか入ってないくせに仕事はちゃんとしてくれる冷蔵庫。家電に対して憎たらしいと思ったのは、たぶんこれが最初で最後になるだろう。
あたしはいつのまにか泣いていた。悲しいのかさえよくわからない。けれど涙はどんどん流れてくる。
ねえ、あなたやっぱり、目を覚まさないで。