気まぐれなあとがき

すべてあなたとわたし宛て

近況

このブログは2020年10月25日に初投稿した。ブログを始めてからもうすぐ3年になる。最初の記事を書いたきっかけは、人生で初めてコーラを飲んだときに、ある人から初コーラの感想を書いてほしいと言われたことだった。おそらく相手は本当に書いてくるとは思っていなかったと思うが、わたしはああでもないこうでもないとWordの上で苦悶し、なんとか完成させてその人に渡した。当時は森見登美彦を愛読しており、文体も森見登美彦が書く腐れ大学生風になっている。今読み返すと文章からにじみ出てくる謎のハイテンションがとても恥ずかしいけれど、それでもあのときのわたしにしか書けなかった文章だと思うと不思議と愛おしさが湧いてくる。

今年の夏も掌編小説を書いていた。8月末締切の某文学賞に応募するためだ。その賞は応募に年齢制限があり、わたしは今年がラストイヤーだった。わたしは恐ろしいほど遅筆で、約1ヶ月、毎日苦しみながらパソコンとにらめっこした。やっと書き上げた小説を読んで感じたのは、書きたいことしか書いてないな、ということだった。作者にとって不都合なこと……例えば難しい描写、作者が好きではない性格の登場人物、などが一切書かれていない。書きたいことしか書いてないから、物語に深みがなく、文体もやけにあっさりとしている。読みやすいといえば聞こえはいいが、これでは誰の記憶にも残らない、と思った。もっと不都合なことも書いていきたい、そのためにわたしも覚悟を決めたい。

中学の同級生がいつの間にか漫画家デビューしていて、今度作品が某有名漫画雑誌に載るらしい。彼とは1年間同じクラスだったけれど、わたしが教室にほとんどいなかったこともあり交わした会話は片手にも満たないだろう。それでも覚えている、自らの机にシャーペンで落書きしていたこと、それを見た教師が「上手い、でも消せ」と苦笑いで言ったこと。この文章を読んでいるかはわからないけど、夢を叶えたんだね、おめでとう。

人が好き

体調が安定し始めてから、ああわたしはずっと人間が好きだったんだな、ということを思い出すようになった。人と話すのが好き、はあまり正確ではなくて、人間そのものが好き、といったほうが近いかもしれない。もう10年以上忘れていた感情だった。わたしは1日に少しでもひとりきりの時間がないと精神的に疲れてしまう質だけれど、今は人と交流することに救われている。とてもいい変化だと思う。

5月から新しい環境に身を置いて、もう3ヶ月が過ぎようとしている。周りの人から「最近は緊張が解けたように見えますね」と言われるようになった。そうか、そんなに緊張しているように見えたのか、自分では気づかなかった。でも、わたしはある程度緊張感を持っていないとすぐにやらかしてしまうから、緊張していない自分を見せるのに抵抗がある。適度な緊張感、適度な距離感、「適度」ってなんて難しいのだろう。

ずっとお話してみたいなと思っていた人がいて、でもきっかけがなくて話しかけられずにいたのだけど、今週ついにそのチャンスが巡ってきた。休憩時間の10分でその人と本当に他愛もない雑談をした。最近暑くて寝苦しいですねとか、気になる冷感グッズがあるんですよとか、そんな内容だった。日頃の印象から口下手なのかと勝手に思っていたけど、話しかけたらちゃんと相手と向き合ってくれる人だった。10分ってあっという間だったな、また話せればいいなと思ったのと、その人が今週でいなくなってしまうらしいと人づてに聞いたのはほぼ同時だった。帰り道、わたしはちょっと泣きたくなっている自分に気づいた。なんでもっと早く話しかけなかったのだろう、雑談のきっかけなんていくらでも作れたのではないか、でも最後にこうやって話ができたのは、神様らしき存在がくれたギフトなのではないか……。その後もう一度話す機会があったけれど、最後だからといって特に別れの挨拶はしなかった。ここを卒業するのは喜ばしいことだし、そっと送り出すのがいいと誰に言われるでもなく察したからだ。わたしにはその人が新天地でも上手くいきますようにと、心の中で祈ることしかできない。人生規模で考えれば、わたしたちが接した時間はほんの一瞬の交差にすぎないかもしれないけれど、わたしはその人のことをずっと覚えていられるような気がしている。

下書き供養文章お得パック

わたし今20代も半ばなんですけど、どうしても20代って認めたくないんですよね

精神的にそんなに大人じゃないっていうか

現実逃避したい まだまだ赤ちゃん扱いされたい

そういうわけで、家の中では2歳を自称しています

20代だから2歳 30代に突入してもまだ3歳でいられるってワケ

結構いいアイディアだと思うんだけど、どうですか?

試しに母に「〇〇ちゃん2歳なんだ~」と言ってみたら

「あ、そうなの~」って

意外とすんなり受け入れてもらえたのでおすすめです

話は変わりますが

好きな色を聞かれたとき、今まではラベンダーとか淡い水色とか答えることが多かったけれど、最近は黄色いモノに惹かれる。それも蛍光ペンのような主張のある黄色ではなく、クリーム色に近い優しい色合いの黄色に惹かれる。この前も特に必要じゃなかったのに黄色い軸のボールペンを衝動買いしてしまったし、くまのプーさんやポムポムプリンみたいな黄色いキャラクターのぬいぐるみが欲しいと思うようになった。

ネットで軽く調べてみると、黄色を選ぶのは色彩心理的に「注目されたい」とか「かまってほしい」という意味があるらしい。うーん、当たっているような気がする……。詳しいことは書かないけれど、最近環境に大きな変化があったから、それも関係しているかもしれない。

また話は変わりますが

しばらく長文を書かずTwitterばかりやっていたら、140字以上の文章を書くのが下手になった気がする。いや、Twitterだって140字ぴったり埋めてツイートすることなんてほとんどないから、実際にはもっと短い文しか書けなくなっているのかもしれない。

長文を書かない代わりに、最近は資格の勉強をしている。こういうことを書くと変人扱いされるけれど、基本的に勉強は楽しいし面白い。資格取得が自分の武器になるとかならないとか本当はどうでもよくて、楽しいから勉強するし、せっかくだから試験も受ける。今は日商簿記3級の勉強をしていて、繰越利益剰余金って書くの大変だな、とぼやきながら練習問題を解いている。まだ初歩的なことしか学んでいないので簿記の本当のすごさとか難しさとかはわかってないのだが、テキストに載っていた「簿記は完成された学問」というワードに衝撃を受けた。意味はよくわかんないけどなんかかっこいい。わたしは完成された学問を学んでいます←かっこよくないですか? 試験は夏くらいに合格できたらいいなと思っていて、本会場で受験するか、ネット試験にするかでずっと迷っていたら本会場の申込期間が過ぎてしまった。ネット試験にします。

今、意識的に小説を遠ざけるような生活をしているから、これから文章を書かずに本も読まずに生きていける人間になってしまうんじゃないかと不安になっていた。でも母の「アンタは飽きっぽいからすぐ本に戻ってくるでしょ?」という言葉に、自分でもちょっと納得したから、今はいろんなことに手を出しておこうと思う。

本当

最近考えていることのひとつに、「本当って、なんだろう?」という問いがある。

わたしは子どもの頃からしょうもない嘘をついては自己嫌悪に陥ることが多かった。例えば「今日の朝ごはん何食べた?」と聞かれたとして、本当は朝から冷凍ピザを食べたのに、「ご飯と焼き魚と味噌汁」とか「トーストとスクランブルエッグとサラダ」とか、朝ごはんとしてふさわしそうな食事を答えてしまう。なぜそんなしょうもない嘘をつくのか、自分でもよくわからない。嘘をつく理由には「かまってほしい」「他人に注目されたい」などがあるらしいが、朝食の内容で注目されることはまずないだろう。

こういう体質(?)のせいで、苦手なものがある。一対一の面談形式の会話だ。「今困っていることはありますか?」という問いかけには素直に答えられるものの、そこから具体的な話題になると、自分の考えとは少しずつズレた答えを言ってしまうことがある。本当のことが言えない。「あ、今ちょっと違うこと言ったかも……」と感じても、いつの間にか話が進んでいて訂正できない。話し相手とふたりで積むつみきが、わたしが小さな嘘をつくせいでつみきがどんどん歪な形になっていき、最終的に相手とわたしとでは完成形がまったく違うことになってしまうのだ。

本当って、なんだろう?

小学生のときに読んだ本の中に「嘘つきは漫画家の始まり」と書いてあって、絵が描けないから代わりに小説を書き始めた。小説はすべて虚構の話だから、嘘つきが役に立つかもしれないと思った。

けれど実際に書いてみると、小説はフィクションでありながらも、本当のことしか書けないようにできていることに気づいてしまった。「見せかけ」を書いても、読者にはすぐにわかってしまう。わたしが書こうとしている純文学は特にそういう傾向が強く、この話題については、小説家の村田沙耶香さんの言葉が印象に残っている。(インタビュー動画を文字起こししたので、文の区切りなど間違っているかもしれません)

「本当の本当」という言葉を、私は小説を書く時よく使っていました。みんなが本当と呼んでいることの、さらに奥底にある、みんなが絶対に蓋を開けない、まだ言葉になっていない本当のこと、そこを子どもの頃から見たかった。
小説を書く時、私は小説に引きずり回されて、その小説がどこにドライブしていくかまったくわからない。だから私は小説を書いていた時、とても怖いところに連れて行かれたり、とても怖い箱を開けなければいけなかったりするときがあります。でも、そこに何が眠っているのか、人間という生き物、自分という生き物の本当の深層心理の恐ろしい場所を見たいし、それを言葉にしたいといつも思っています。それはとても怖いけれど強い願いです。

本当って、なんだろう?

この問いに答えを出すのはものすごく難しいけれど、これから何年かけてでも自分の答えを出したいと思う。

1月に考えていたこと

大学の試験が終わって、あとは卒業判定を待つだけになった。最後の試験を提出したとき、なにか熱いものでもこみ上げてくるかと思ったけれど、実際は普段の試験と何ら変わりはなく「やっと終わった、明日から何しようかな」程度の感慨だった。これが大学の教室で受ける試験だったらもう少し違う感想を抱いたかもしれない。普段から孤独に勉強している通信制大学生が、完全オンライン化した試験を終わらせても、喜びを共有できる仲間なんてほとんどいないのだった。一応両親と祖母に「試験終わったよ~」と報告して、それぞれ「よかったね~」「頑張ったね~」「大いに羽をのばしてね~」という返事をもらった。

最近は公募文学新人賞に求められる新しさについて考えている。小説を書いてお金を稼ぐにはまず小説がどこかから出版されなければならない、そして出版されるには(王道を歩むとすればの話だが)公募新人賞を受賞しなければならない。ジャンルを問わず新人賞の募集要項には大体「今までにない」「面白い」「新鮮な体験をさせてくれる作品」を求めていると書かれており、わたしはその「今までになく」「面白く」「新鮮な体験をさせてくれる作品」をどうやって生み出すか毎日頭を悩ませている。あまりにも無難な小説を書いたって目もくれないだろうし、あまりにも前衛的な小説だって弾かれるだろう。よく「新人賞の傾向を汲み取って書かれた小説はつまらない」という意見が出てくるが、わたしはカテゴリーエラーを避けるために新人賞の傾向と対策はある程度練っておいた方がいいと思っている。新人賞選びは就活と同じくらい慎重に行った方がよい、とどこかで読んだことがあるし、出版社のカラーに合わない作品を送っても受賞する確率は低いと踏んでいる。最後の最後まで迷うんだろうなと思いながら、各賞の募集要項をダラダラ眺める日々を送っている。

 

1月に読んだ本が全部よかったのでここに書き残しておく。

 

ずっと前から積んでいた本で、いつ読もうか迷っていたのだけど、新年一発目にふさわしそうだと思って本を開いた。又吉さんワールドとヨシタケさんワールドがぶつかりあって化学反応を起こしたような一冊。どんな風に終わるんだろうとわくわくしていたら、予想外のラストが待っていて唸った。こんなラストが思いつくような才能がほしい。読書が好きな人も、あまり本を読んだことがない人も楽しめる本だと思った。

SNSで読みたい本を見つけることが多く、この本も多くの読書垢が勧めていたので買ってみた。元々はZINEと呼ばれる自費出版の本だったらしい。エッセイと日記が収められていて、どの文章も徹底的に「自分」と向き合って書かれている。こんなにも他者の自意識に触れたのは初めてだと思った。特に好きだったのは「みんな魚」という題の文章で、短いのにこんなに引き込まれるなんて!と感嘆した。今年2冊目にして早くもベスト本にランクインしそうな本に出会った。

この本もSNSで見つけた。感想に入る前にあらすじをちょっと読んでほしい。

彼女は過去を振り返るとき自分のことを「少女」と呼ぶ。やがて死す叔母との対話、国語教師との怪しげな関係、夜更かしな読書ノート。それは平穏だったり不穏だったり日常だったり秘密だったり。驚異の文体で高二の少女のひと夏を描いた乗代雄介のデビュー作。

あらすじを読んでもどんな話なのかまったくわからない。読んでみるとわかるのだけど、この小説はストーリーを伝えるのがとても難しい。文体も難解で、純文学になじみのない人は面食らうかもしれない。作品の中にところどころ気になる文がちりばめられているのに、語り手は核心にはまったく触れず、「周辺の情報」ばかり語っている。唯一無二の文体と、情報の出し方が秀逸な作品だと思った。感想を書くのはとても難しいのだけど、わたしはこの小説を読んで、自分の中で凝り固まっていた小説観がいい意味でぶっ壊されたと感じた。

近況

・毎回小説を書き始めるとき、「小説ってどうやって書くんだっけ?」と何もかもがわからなくなります。

・夏に書き終えた掌編小説は文学賞に送られて、どこにも引っかからずにひらひらと舞い散りました。予選落ちというやつです。まあそうでしょうね、というのが率直な感想で、ひとかけらくらいあった悔しさは一晩寝たらどっか行ってしまいました。

・選考結果を待たずに次の小説のことを考えてきましたが、夏が終わり秋を通り越して冬になった今でも、書き始めることができません。

・脳内では輪郭のぼやけた女の子がこちらに向かって何か主張しています。おそらくこの女の子が次の小説の主人公なのでしょう。女の子は聞いたことのない言語を話していて、今のわたしには女の子の言っていることが理解できません。女の子の輪郭にピントが合って、彼女が話している言語がわかるようになれば、物語の世界が動き出すのではないか、と推測していますが、それがいつのことになるのか見当がつきません。わかるまでのんびり待つのではなく、彼女の言語を研究する必要がありそうです。

・来年のことを言うと鬼が笑うといいますが、そろそろいいでしょう。来年は文章を書くために目と耳と心を鍛えていきたいです。

脱稿

7月の終わりからずっと掌編小説を書いていた。

「応募してみたら?」と教えてもらった新人賞は、単行本デビューできるわけではないからスルーしていたのだけど、年齢制限があり今しか応募できないと知って、とりあえず書いてみることにした。プロットも一応作ってみたけど全然当てにならず、成り行きで書き進めた。一ヶ月くらいかけて原稿用紙23枚ぶんの物語が完成した。わたしはとにかく筆が遅いことで有名なのだった。

わたしは頭であれこれ考えすぎて行き詰まるタイプだということが今回の執筆でよくわかった。そこで実験としてわざと音楽をかけながら文章を書き、余計なことを考える隙を与えないようにしてみた。実際に作業してみると、文章を書くことだけに集中できたような気がした。長時間書く場合は頭が疲れてくるのでやめておいた方がよさそうだったけど、短時間作業するときは使える技かもしれないと思った。

書いている途中、いろいろな妄想をした。もしも最終候補に選ばれたら、もしも新人賞を獲ったら、というものだ。そんなのどうでもいいから手を動かしなさいよと言われればその通りなのだけど、妄想している一瞬が楽しくて原稿に向き合うモチベーションになる。

そういうことを書くと自分の小説に相当自信あるんだな、と思われるかもしれないが実際は逆で、自信がないから自分を奮い立たせる必要があっただけだ。原稿を送り出した今でも、もっとよい小説が書けたんじゃないかと思っている。まあ今回はリハビリみたいなものだから……とセルフハンディキャッピングをして、今は次に書く小説のことを考えています。